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PROFILE

▶YAGO

石川 純

Mail:yago0907@gmail.com
Skype: YAGOJUN
Twitter: yago0907

1990/9/7

秋田県由利本荘市出身

敬和学園高等学校卒業

国際基督教大学教養学部リベラルアーツ学科 中途退学

2013年4月に再入学し、二年生から始めます。

それまで地球で旅をします。


▶Like&Curious
• 自転車:で走りながら歌うのが気持ちよすぎる
• 読書:って書いてみたいだけ
• 弾き語り:でハナレグミ。オリジナルで一番完成度高い曲は、じゃがいもって曲
• 映画鑑賞:は大好き。節目に毎回見る。オススメを教えて欲しい!
• ヒッチハイク:はもはや移動手段。でも出会えることは最高。
• 食べる:痩せてるけど大好き
• 会話:人の話を聞くのも、討論するのも好き。数人の友人の相談相手
• 農業:はいずれします。秋田県由利本荘市で。
• 町おこし:をしたいんです。秋田県由利本荘市で。
• 空間:作りだったり、空間提供をしたいですねえ。


▶本

• フラニーとゾーイ/サリンジャー
• ダンスダンスダンス/村上春樹
• 武装解除/伊勢崎賢治
• リアル/井上雅彦
• 古谷実/の鬱系のやつ
• ワンピース

▶音

• くるり
• ハナレグミ
• サンボマスター
• 奥田民生
• 三宅洋平
• フジファブリック

▶映画

• もののけ姫
• スクラップヘブン
• 重力ピエロ
• Livertine
• Paris
• Into the wild


▶自分史

• やご

秋田県に田舎や村というよりは町と呼べる本荘市(現:由利本荘市)に四人兄弟の末っ子で三男として生まれる。上の三人とは10歳以上の年齢差があり、可愛がられる。カメハメ波をカメハ!と言いながら爆笑していたらしい。

「や ご」と名乗っている理由はある事故がきっかけだ。小学校三年生のときに自転車で遊んでいて自滅事故を起こした。救急車に乗る前に母親にこうつぶやいた「や ご...」大物がとれたのだろう。手術の結果、肝臓破裂で胆のう摘出。お腹に縫った跡が大きくある。もし死んでいたら最後の言葉はやごだったというわけ だ。この時、病院のICUに入った。


• 中学
1年時、まあまあな成績&サッカー部入部。
2年時、クラスに馴染めず不登校になる。学校に行かず家では酷い生活を繰り返す。昼以降起床→チャット&昼飯→チャット→晩飯→深夜番組見る→深夜に寝る→昼以降起床→チャット... を繰り返した。たまに部活に行くために登校。
3年時、体育の日だけ学校に行った。登校してもほとんど遅刻。部活は部員が少なかったので右サイドハーフのレギュラー。

自 分の勇気さえ使えば簡単に自殺できると思っていた。その頃に、Mr.Childrenの終わりなき旅を聞いた。兄がインディーズでCDデビューというイベ ントもあったし、その時ミュージシャンになろうと誓った。精神的に辛い人を救えるミュージシャンに自分もなりたいと考えたからだ。しかし完全にミュージ シャンになろうとおもっていたわけでもない。死ぬことをやめただけだった。

二十歳まで生きてみて人生に失敗したらカンボジアの地雷を踏んで、地雷撤去でもしてやろうという思惑もあった。この命を何かに使いたいという考えは以後の様々な思想に結びつく。

中 学一年の成績は良かったし、勉強していれば地元の進学校に入れた。しかし、明らかに無理だった。駄目元で敬和学園という高校を受験。新潟にあるキリスト教 の学校で、兄弟全員が通った学校だ。日本全国からその学校が掲げる「自分探し」に釣られて入学してくる。そういう人々が寮に入る。そこに自分も受かった。


• 高校
結果から言うと、不登校野郎が開花した。ミュージシャンになるために作詞作曲でバンドをやった。瞑想系美術部と名乗って美術室で歌っていた。三年の最後にはラグビー部に入って走った。生徒会でアイデアを出したり、企画系に携わり始める。

旅 に結びつく最初の出会いは高校一年生の時だ。「社会科特別授業」生徒が作り上げる一日授業の実行委員長をしたからだ。その時の講師が、NGOテラルネッサ ンスの鬼丸昌也さん。カラシニコフの本を読んだ。少年兵について知りアフリカにある内戦やアフリカに興味を持つようになった。自分の進む先はここだと思っ た。


• 大学進学の決意と方向
高校生として大学の選択をせまられた。ミュージシャンになりたかったから音楽専門学校に行 こうと決意し、説明会にも二回ほど行った。ある日、自分を気に入ってくれているふとっちょのオーラルの先生とお茶をした時にこう言われた。「純は大学にい くべきだよ!」彼は僕の授業態度等をかなり評価してくれていた。その頃、聞き始めていたくるりも大学卒業しているし、大学で勉強して教養のある音楽をしよ う!と決めて大学進学を決意。

親友がリベラルアーツ学科に行くから自分も行きたいなと思った。そこでリベラルアーツ学科を色々と調べてみ ると、ICUを発見して躍動。キリスト教推薦とやらがあるのでそれを狙った。結果的に大学進学のために洗礼を受けたことがきっかけでライバルは諦めてくれ た。先生方は、こんなに英語のできない人間をICUに送るのは前代未聞だと僕を脅し続けた。それは事実だと自分でも思う。ICU合格。

高校卒業時に現代社会特別講義という授業をとっていた。その授業の最後にある本を読んでレポートを書かなくてはいけなかった。その本は伊勢崎賢治/武装解除 という本。これだ。と思った。

• 大学の方のICUと旅
週 4日の英語漬け。何%理解できていたのかわからない。夏休みに栃木県のアジア学院でボランティアにいった。アジア学院とはアジア、アフリカ、南アメリカの 農村地域の人を日本に招いて、日本の農業技術、リーダーシップ、コミュニティ形成について学ぶ学校だった。そこで農業をしながら英語コミュニケーションに 慣れた。そして、アフリカ大陸の友人ができた。


アジア学院でボランティアをしている時に紙すき職人の田村正さんと同じ部屋で泊 まった。その際、彼は19,20歳で二年間働きながら旅をしたと語った。その時、自分も旅をしようと決めた。それからヒッチハイクを始めて日本を回り始め た。東京、京都、新潟、茨城、山形、秋田、山口の上関町、青森の大間、島根の海士町。島根では、流学を書いた岩本悠さんとも会えた。


話は前後するが旅をし始めている間に、大学を辞めることを決意。何故なら、休学は二年間のみだが3年以内なら退学後に再入学可能なシステムがICUにあるからだ。大学卒業してから世界を知るよりも、世界を見てから大学として価値のあるICUで学ぶ選択をしたのだ。


それは逃げだった。受験戦争を勝ち抜いた彼らと対等に学んでも違う。だから戦うフィールドをずらした。そこには戦う相手も就職活動も存在しない。自分の流れに身を任せるだけだ。