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2012/02/12

一部分であること

img_1322559650.jpg人生で初めて見た糞ころがし。思わず叫んでしまった。


まとまりで考えすぎることの愚かさと不自由さについて書きたい。

●●人や地域、県など広い対象を一般化して呼ぶことは避けられないことだ。事実として、その広い対象の中に数多くの違いが存在し、それらを認識できれば1番良いが、それは物理的に困難だ。その可能性を認識し一般化、単純化しない想像力が必要だ。


1.アフリカ
     はたして、読者の中にどれだけの人がアフリカの地に足を運んだことがあるだろうか。自分も19歳になるまでアフリカのイメージといえば赤い土とサバンナとジャンベだった。大学の寮のルームメイトがコンゴ人だったこともあり、アフリカ人全員がジャンベを叩けるわけではないことを知った。
     去年、今年とガーナを訪れた。ガーナは西アフリカで最も経済的に発展している国だ。大きなビルが立ち並び、道路も比較的大きい。高級住宅地の家々も大きく眩しかった。しかし、多くの市民が住む家は小さい空間に数人が寝ているような状況だった。ガーナからシエラレオネに去る際、彼らは「シエラレオネは危ない。君を傷つける人間がいるから気をつけろ」と強く忠告された。
     さて、シエラレオネに来たけれど大半の人間は友好的だ。大金を取られてはしまったが、その分、多くの人に助けてもらった。そんなシエラレオネはフリータウンの西から東に移り住んだ時、西の人々は言った。「犯罪を犯す奴らは東の奴らだ。気をつけろ」確かに気を付けたが、何かをされることは全くなかった。フランス語圏に行こうとしている現在だが、数人は言う。「俺はフランス語圏の奴らが嫌いだ。あいつらは人を騙すし....」と流石に呆れた。
     


2.中国、韓国の差別
     中国人、韓国人との罵倒の仕合をよく見る。中国人、韓国人の友人どちらもいるけれど、全く危害を加えないし良い友人だ。何が言いたいかというと、お互いに差別発言するのは一部の人間であって、大半の人は日本の地震を祝ったりしない。はずだ。もちろん、自分が中国、韓国のネガティブな情報をあまり知らないことは否定しない。しかしそれと同じく、あちら側で気にかけている人間も少ないのだ。
     ネガティブな印象しか持たない人はポジティブな情報を探さずに、底に埋まっていく。ポジティブな印象しか持たない人は、ネガティブな情報を調べた方がいいのかもしれない。●●人や国、地域のことは実際に自分の目で見た人間が多くを語れると信じている。インターネットで得た情報は優れているかもしれない。しかし、誰かの手によって得た情報で、自分と情報の間に大きな溝がある。

3.どうでもいい。

     アフリカの話に戻る。アフリカの地でビジネスをする中国人の多さは相当なものだ。ガーナ、シエラレオネに中華料理レストランがあったし、アフリカの道路の大半は英語も話せない中国人が黒人に指示を出している。だから道路でも街でも中国人をよく見かける。そのせいもあって、アジア系の顔をみれば全員が中国人だと認識される。彼らは中国の中に日本と韓国があり、中国語が共通語だと思っている。考えてみれば、大半の日本人にとって、ザンビアとセネガルがとても遠い事なんて本当にどうでもいいことであるように、日本人が日本語を話し韓国人が韓国語を話すことは彼らの生活には誠にどうでもいいことなのだ。中国人の80%がカンフーをしていようと20%がしていようと僕をチャイナ!と呼ぶ人々には全くもってどうでもいいことなのだ。

4.知識
     しかし、「知ること」の意義を否定はしない。その人が自分の興味を「アフリカ=発展途上国」や「アジア=格闘技」という知識のみで留めるかどうかなのだ。自分が何かに対して偏見を持っているであろうことは否定できない。世界のことも日本のことも知らないことが多々ある。そこで、自分にできる事は何か。情報に偏りすぎずに調べること、人と話すこと。そして現地に向かって人に会う努力を続けたい。そして発信した時に受信者がそれを知ろうと行動してくれるように努力もしたい。


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