今週、牧師夫婦と三回会った。シエラレオネの教会に興味はあるが、今のところクリスチャンの強要はお引き受けしない。彼らの信仰心は尊重するし、彼らの社会がそれを中心に回っていることは興味深い。テレビでもキリスト教信仰心の熱心さが伝わる。中学生くらいの子供が歌っている曲のPVがキリストがサタンと戦うものだったり、教会でサタンに取り憑かれた女性が発狂し救われるドラマなどを見た。テレビによる教育や両親の教育によって、多くの人間がキリスト教を信仰するのだろう。それが彼らの「常識」になる。
▶常識と情報
その「常識」は「文化」とイコールではないにしろ、多くの部分が重なっているのではないか。つまり、日本の親が伝えること、テレビによる情報が子供を作り常識を刷り込んで来たのではないか。テレビが各家庭にある時点で、シエラレオネやガーナよりも日本の子供がテレビの影響を受けている割合が高いのは確かだろう。また、「大学までストレートで入学し就職」のプロセスが讃えられるようなある種の文化さえも感じる。(もちろん、崩れてきているのはわかる)
情報というものは怖いものだ。常識を作り上げ人を安心させる。しかし、一つの情報がその土台を打ち壊すこともできる。逆に言えば、一つの情報が人を救う。情報を得ること、つまり知ることをやめられないし、やめたくもなるのだろう。
日本の自殺者数が多い理由に情報の多さがあるのではないか。情報が多いことで個人の時間を獲得しようとし、他人とのコミュニケーションが減る。情報が思考を回し、ネガティブな方向に進むと「どこにも進めない感」に陥る。もちろん、その「どこにも進めない感」を救うのは情報でもある。しかし、自分の脳よりも外とのコミュニケーションを断つとそこから逃れる新しい情報も入らない。どこにも進めないから、道を外れることを目的として、その手段が自殺になってしまうのだ。
≫余談
と書いているものの、今まで自殺願望を数回願いつつもただ単に行動に移していないのが私なのだ。未だに息があることは幸せなことだが、「死」に対する行動を決断で来ていないだけなのだ。決断力の無さが今の自分を作っているとも思えてしまう。明日やる。自分ならできる。等々、自分への自信を持ちズンズンと進んでいながらも、ある点では匍匐前進していただけ ー足踏みしていただけかもしれないー なのではないかと感じてしまうのだ。
他人からの期待が全く荷物にならないことは幸せな性格かもしれない。立ち止まっていても、心だけが前に行くことで進んでいる気分になるのだ。心臓だけ1メートル先を進み、体は元の場所。なんとも、お幸せな心臓なのだが体は負担を感じている。これを理想と現実の差と呼ぶのだ。と気づいてしまった。気づいたという言葉では甘い。ある瞬間。天から(地でもいいが)槍が降って来て私にこう知らせたのだ。「君はいつそれを現実にするの?」
▶不平等と生きづらさ
さて、人間に平等が与えられているとしたら「不平等という平等」しかないのではないか。環境の違いはスタート地点を変える。いくら学ぶ経過が等しいとしても環境の違いは情報獲得の差を生む。情報の会得に差がありながら自助努力をしたところで、それが平等になるわけがない。
Twitterでこんな呟きを目にしたしリプライした。「日本人であることだけで得をしている。」意味はわかるしシエラレオネで体感している。しかし、よく考えて見た。果たして「幸せ」なのだろうか。これを読んでいる人はTwitterやmixi、Facebookを利用していて、かつわざわざ私のブログに来ている人なのだから、比較的幸せな人生なのではないかと予測する。日本が常識に沿えば幸せに生きられた時代ではなく、いわゆる生きづらい時代なのは確かだ。就職難という言葉が蔓延し、ニート、ワーキングプア、ホームレスが虐げられている。失敗してはいけない。というプレッシャーを勝手に感じている人が多いのではないか。いや、そのプレッシャーが家庭環境にあるのかもしれない。
むしろシエラレオネは生きづらいわけではないと感じてしまう。ニートやホームレス、教育の受けられない子供。福祉の土台がない故に道に座り込む障がい者。それが「常識」なのだ。白人が少しお金を恵むと、余裕で一日を過ごせる。100円あれば、しっかり飯を食べれるのだ。何もしないで座っているだけで食べれるのだから、なんとも楽だ。明らかに内戦で両手首を切断されたであろう人には同情を覚えてしまったが、道路で乞食をしている車椅子の若者は明らかに楽しんでいた。幸せの形が違うのは言うまでもない。
一緒に暮らしている、カイルという22歳と話した。彼はuniversity ではなくcourage なので簡単に就職できるわけではないと思う。そして、母親しかいないものの学校にいけているだけで金銭的には恵まれた環境だろう。今日も母親と教会に向かった熱心なクリスチャンだ。
やご「来年度は大学4年生で就職活動だけど、不安感じる?」
かいる「え、何で?」
やご「いや、だって、就職できなかったら働けないし。少なくとも自分は大学卒業してから自分の人生がどうなるのか不安だからさ。」
かいる「あー。まあ、就職できるし大丈夫だよ」
楽に就職できるかどうかわからないが、就職に対して楽観的になのはわかる。神が導いてくださる系の思考かもしれないが。チャンスの有無が個人によって差があることはシエラレオネも日本も同じことだ。
日本人だから背負っている生きづらさがあるのではないか。常識に沿って生きること、盲目に生きることは幸せで生きやすいのかもしれない。何故なら、ある価値観をマジョリティが信じ、人々はその価値観によって支えているからだ。日本人だから得をしていること、それは金銭的、グローバルな認識をされていることだろう。それに気づけるだけで幸せかもしれない。しかし、どこからか「その道を沿うんだ」という囁きが聞こえてしまうのだろう。常識の囁き。常識のプレッシャー。
▶情報、芸術、共有
それを解決するものは「広さ」だ。3つに分けると、1.情報、2.芸術、3.共有だ。その競争から外れればいいだけなのだ。その一つが躍学なのだが。
1.情報: 情報が生きづらさ、つまり常識を崩し生きやすさを作り出す可能性があることはこの記事で少なからず触れている。例えば、私がボランティアをしていた栃木にあるアジア学院に行くだけでも十分常識が崩れるのではないかと思う。半農半Xという選択肢は皆に開かれている選択肢だ。もしくは、渋家(シブハウス)の形態もなんとも面白い。あれは一種のベーシックインカムになっていると私は思う。
2.芸術: 芸術は宗教の役割をし得ると考える。ガーナの牧師とミスチルの記事でも触れたが、文学、音楽、美術、映画などなど、あらゆる芸術は心に響く何かがあるのは確かだ。ある種、聖書という文学なのではないかとも思う。その文学に音楽を乗せたのが讃美歌やゴスペルとでも言っておこう。もちろん、芸術が心に呼びかけるのは綺麗なものだけではない。しかし、それが現代であり変わりゆく時代の現れなのだ。
3. 共有: 共有、つまり人との関わりだ。コミュニケーションという意味でも捉えて欲しい。共有と言ったら、もはや読者は使用しているだろうが、SMSは共有が大きな目的となっている。私が大好きなInto The Wildに出てくる言葉にも、こんな言葉がある。
「Happiness only real when Shared」
「幸せは人と共有したときだけ現実となる」
この共有はSMS内の共有だけを示していない。SMSから広がる共有を提案したいのだ。(一部の人はとっくに実践しているのが、これが方法として定着するように願いを込めて書く。)例えば、私は2011年の上半期にTwitterで出会った5人の人と直接会った。岐阜の農家、島根の教育関係の仕事をする人、渋谷のシブハウスの社長、秋田の大学生、青森の反原発を叫ぶスーパー勤務の人。彼ら1人との出会いはより広い出会いをもたらしてくれた。どの出会いも自分の糧になったと大きな声で言える。
生きづらさを解決する広さは3つに分けられる。それは情報、芸術、共有だ。情報は常識を崩す。芸術は心を支える。そして共有することで幸せを得られるのだ。これら3つの広さが生きやすさを作り出す可能性は十分にある。
躍学。
そして僕はこの3つをうまく利用したカフェを作ろうと考えている。
美容院×カフェ、本屋×カフェ、など、ミックスさせたもの。
ネットカフェなど、時間に価値をおくもの。などなど
新たなビジネスが始まっている。
そしてSNSによって価値は変化してくる。
もはや、人がそこにいることに価値が生まれてきている。
あなたがそこにいる。それだけで、
1人に衣食住の「食住」を与えられるのではないか。
それはつまり、ベーシックインカムになりうる。
Twitterをやっている一部の人なら知っているだろうが
sayuritamakiさんが言っていたことだ。
ベーシックインカムを自分たちで作る。
と、頭の妄想は大きくなるばかり。
ランキング系は好きじゃないのでポチッとな!とか言いませんが
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やご
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